8月6日 広島へ
小笠原の帰り、平和祈念式典と、父母の墓参りに
娘と広島に寄って来ました。
沖縄は、暴風で、飛行機も欠航していました。
亡くなった私の母は、爆死地から1.7キロで被爆しており、私は被爆Ⅱ世、子どもたちは、被爆Ⅲ世ということになります。
平和記祈念式典の挨拶では、脱原発の話が続きましたが、そもそも原発は、「トイレのないマンション」といわれるように、最終的に人間の力では解決できない、放射性廃棄物を生産し続けます。
人間の命も生活も破壊する現実をみても、まだ、原発を受け入れようとするのでしょうか。
いわゆる電源三法(電源開発促進税法••電源開発促進対策特別会計法 発電用施設周辺地域整備法)
に基づく交付金がそうさせるのでしょうが。
被爆から66年、広島では未だに後遺障害を抱える被爆者がいます。
福島原発の被害は、現在も発生し続けています。これから、何十年、その被害の恐怖にさらされなければならないのでしょうか。
広島の被爆者が、抱え続けた不安と悩みを、福島の被曝者は、これから、何十年も抱き続けなければならないのです。世代を越えて、その不安は続いて行きます。
誰がその責任をとることが出来るのでしょうか。
私の卒業した本川小学校は原爆ドームの川向かいにあります。被爆した校舎をそのまま資料館として残しています。小学校3年生の時、この建物の上の教室をつかっていました。当時は、すでに戦後20年近くを経過していましたが、教室の隣の倉庫には、被爆後の救援生活をしていた人たちの、古い茶碗や箸が散乱していたのを記憶しています。
核と人間とは共存出来ないし、すべきではありません。
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